ほんきっき

アスペルガー夫に悶絶する新妻のほんきにっき

「人間の姿をした動物」から積極的に逃げるすすめ

今日、書いてみようと思うことがある。

それは、明らかにおかしいという人からは「積極的に逃げる」という方法のすすめ。

 

コメントをいつも読ませていただいて痛感していることがある。

それは、皆「頑張り屋さん」であるということだ。

 

相手が発達障害ではないかという疑いがありながら、相手の悪いところに目をつぶり、「受け入れてあげよう」「我慢しよう」「許してあげないと」と思う。

一生懸命、自分を犠牲にしてまで、相手と一緒に居ようと努力する。

「私さえ我慢すれば、うまくいくのでは」

「もっと私が寛容になれば、うまくいくのでは」

そう思って日々苦しみながら努力を重ねる、頑張り屋の方が沢山いらっしゃるように感じる。

 

日本人の基本的特性として依然として存在する、努力すること、我慢すること、男性を立てること、口出ししないことの美徳。

特に女性にとって、そんな求められる「日本人的女性像」を全うしようとする意識が強いように思う。

そして、そんな固定概念により、多くの人が苦しんでいると感じる。

 

もちろん、女性の優しさや心の柔軟さは美しいが、それでも、気をつけないといけないこと。

 

それは、

「物事には限度がある」

ということだ。

 

もちろん、人に優しくしたり、彼や彼女や夫や妻に惜しみない愛情を注ぐことは美しい。

でも、もし相手がどうしようもない「ダメ人間」だったり、「最低な人間」だったりする場合は、どうなのだろうか。

 

上記のような人間の鏡のような行動というものは、基本的には通常の人間に対して行うべきことだろう。

 

極論を言えば、暴力を振るうような人間や、ましては人殺しを犯すほどの人間に対して、そのような人間に「優しく」振る舞う必要はないことは、誰でも理解できる。

 

それでは、そこまで極端ではなくても、「暴言を吐きまくる」「物を投げつける」「精神的に病むほど自分を追い込む」ということをする発達障害のパートナーに対し、こちらがそういう風に優しく、怒りもせずに付き合うことが正しいのだろうか。

 

そのあたりの考え方が混乱してしまっているように感じる。

 

もちろん、人として「優しく、愛情深い人間」でいることは大切だ。

だけど、パートナーが自分を攻撃してくる、精神的に病むほどにダメージを与えられる場合。

その場合の正しい判断は、「向き合わず、積極的に逃げること」だと私は考える。

 

その判断基準の一つはこれだ。

 

「相手が、人間らしいかどうか」

 

一体、人間らしいとは、どういうことだろうか。

 

それは、動物ではないということ。

 

今自分が、人間の姿をした動物と付き合っていないか、結婚していないか、一度考えてみてはどうだろうか。

 

 

人間と動物の違いを整理してみる。

 

両者共通の特徴は、

・愛情がある

・喜怒哀楽がある

・本能がある

 

人間にあり、動物にないものは、色々な議論があるだろうが一つは、

・理性がある

 

と書いてみることにする。

 

そうすると、例えば下記のような相手は果たして「人間」と呼べるだろうか。

 

 

<キレだすと止まらなくなり、物を投げたり、しまいには家の中に唾を吐く>

こちらは何を隠そう、我が家の夫が行なった2年前の出来事。

こういう行為、上記に書いた内容に照らし合わせて、果たして「人間だ」と言えるだろうか。

人間には理性がある。

理性とは、「していいことと悪いことの判断ができること」だ。

言い換えると、「家の中で唾を吐くこと=してはいけないこと」と判断できるのが人間である。

そして、その判断を元に、いくら唾を吐きたくなっても「我慢できる」のが理性を持つ人間である。

それができなかった我が夫、それが「人間の姿をした動物」の一例だ。

 

それでは、「どうしてそんな人とまだ一緒に居るの?」とつっこみが入るだろう。

 

それはなぜかというと、改善したからだ。

 

私はそこで一切彼に容赦なかった。

 

私は元々変わっているので、日本人的女性像など微塵も備わっていない。

なので、家の中で唾を吐いた夫に対し「この人、おかしい」と感じた瞬間、私から夫への猛攻撃を開始した。

 

私の優しさなど皆無だった。

おかしいものはおかしい。

この人、変だ。やばい。

徹底的に打ちのめさないといけない。

 

私がしたことは、夫を死ぬほど怒り倒したことだった。

 

夫を全否定し、人間として最低の人間であることを伝えるべく全身全霊で発狂した。

それはそれは暴れながら、離婚すると散々脅し、キレて、今後もし同じように物を投げたり唾を吐くことが一度でもあったら容赦なく離婚することを宣言した。

 

そうして、それ以来彼は物を投げることも、唾を吐く事もなくなった。

 

だから、今こうやってまだ離婚せずに、その夫と一緒に暮らしている。

 

でも、もしそうやって改善ができず、相変わらず物を投げられたり唾を吐かれたりしていたら、一切の情も切り捨て、離婚していただろう。

そんな動物から成長できない人間は、人生において、必要なパートナーであろうはずがない。

 

改善ができるということは、理性があるということだ。

 

改善ができない人間がもし近くにいるとしたら、逃げたほうがいい。

それは、人間の姿をした動物だ。

 

でも、こちら側もすることがある。

 

それは、優しく接するだけではなく、しっかり怒ること。

怒ることもできないのであれば、相手うんぬん以前に、自分に問題がある。

動物的な行動をとる人間には、怒らないといけない。

人間的に異常な人が自分を傷つけるなら、しっかり怒らないといけない。

自分はそのくらい、大事な存在だからだ。

自分を傷つけていい人間など、いないのだ。

「自分はいいのよ」と自分を大切にできない人は、まず自分を変える必要がある。

自分が大切にしないといけない存在は、他人だけではない。

まずは「自分」である。

 

それをしっかりわかった上で、自分を傷つける人間とは、毅然とした態度で戦わなければならない。

 

そうした結果、相手が人間とは思えないほど本能のままに生きる動物のような異常な人間なのであれば、積極的に逃げないといけない。

いつまでも付き合っていてはいけない。

 

「相手が自分を愛してくれているから」なんてことは、どうでもいい。

なぜなら、愛することは動物でもできるのだ。

人間だけの特性ではない。

 

猿だって、犬だって、鳥だって、求愛し、異常なまで相手を追いかけることだってある。

そのような動物だってしていることを、ありがたがって受け取ってはいけない。

 

 

逃げるか付き合うかの判断は一点、「人間らしいかどうか」にかかっている。

 

 

もし、相手と別れようかどうか判断に迷っている中で、こんなことを考えて踏みとどまってしまうとしたら。

 

「だって、こんなに私を愛してくれる人はもう現れないかもしれない」

「私がいなくなったら相手の人生がどうなってしまうのか心配」

「私さえ我慢すれば上手くやっていけるかもしれない」

「あの人の魅力的な部分にどうしても魅かれている自分がいる」

「自分も相手と別れたら寂しくて、これからどうやっていけばいいかわからない」

 

 

視点を変えて、下記を考慮してよく考えてみてはどうだろう。

 

愛することは、動物でもできること。ありがたがるほどのことではない。

自分が大切にするべき優先順位は、1番に自分、2番に他人であること。

我慢して、自分を犠牲にしても良い方向には決して進まないこと。

誰でも魅力はある。それよりも「人間的」であるかで判断してみること。

「寂しい」という感情に振り回されないこと。

もし自分が自分の感情に振り回されているなら、自分も同様に人間らしい「理性」が足りていないのかもしれない。

そういう自分の動物的なところと、相手の動物的なところの調和がとれているから離れられないのかもしれない。

釣り合っているから一緒にいると、よく言われる。

「寂しい」という感情が永遠に続くことはない。

コロコロ変わる自分の感情をコントロールすること。

そうやって自分が変わることで、相手との関係性も変わるだろう。

 

 

最近、特に私自身が肝に命じていることがある。

 

それは、

類は友を呼ぶ

というよくできた古くからの教え。

 

これは、本当だと思う。

このことをいつも頭に入れ、私も今ずっと学んでいる最中だ。

夫に対し、どんなに思うことがあっても、果たして自分はどうなのか。とよく考えることにしている。

 

人間、どんなひどい人間といても、なにかしらの共通点があるのだ。

大事なのは、その関係の中で自分を鏡のように見つめ直し、自分から変わる勇気を持つ事だと思っている。

 

何事も自分から。

自分が苦しくて仕方がないときは、何かが間違っているという証拠だと、最近特に感じている。

 

相手が変わってくれれば。

相手だけが悪い。

 

そんな考えに頭が支配されている限り、何も状況は好転しない。

 

答えは、常に自分にある。

 

自分が行動すること。

 

怒れない人なら、怒れるように自分を変える。

怒ってばかりの人なら、怒らないように自分を変える。

逃げる勇気が持てないのなら、積極的に逃げられる自分に変わる。

逃げてばかりなら、逃げない自分に変わる。

優しすぎてなめられるなら、毅然とした態度をとる自分に変わる。

人に優しくできない人なら、思いやりを持つ自分に変わる。

 

人は、完璧ではない。

私は、最近夫に対し「怒ってばかりいる」ことに気づいた。

そして、それを変えてみた。

小さなことでイライラして怒ってしまう自分。

その自分と、いちいち私を怒らせる夫。

その釣り合いが抜群だったことに気が付いた。

 

だから、その釣り合いのバランスを崩そうと、自分が変わる決意をした。

夫の言動行動を改善させる努力を手放し、自分がいちいち小さいことで怒らないよう、変わる努力をし始めた。

 

そうすると、事態は不思議なほど好転していった。

なぜか、揉め事が起こらない。

なぜか、物事が上手くいっている。

 

不思議なのだが、そういうものなのだろうと感じている。

 

変わるのは常に自分から。

行動を起こすのは自分から。

 

そんなことの重要性を最近痛感している。

 

少し、精神論的な響きがあるので、あまり受け入れられない人もいるかもしれない。

あまりに状況がキツすぎる時には、耳にもいれたくない内容かもしれない。

 

でも、なにか些細なきっかけで、人の人生は好転するのだと思っている。

なので、そんな一握りの方にでも、何かのきっかけになればと思い、書いてみた。

 

 散乱した文章となってしまったが、まとめると、

 

・自分に対しひどいことをする人に怒れない優しい人は、怒る努力をする

・あまりにも人間的ではない変な人とは付き合わず、積極的に逃げる

・自分を変える勇気を持つ

 

ということ。

 

少しでも何かお役に立てれば幸いです。

では、また。

 

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